第一日課 ヨナ書2章1節~10節 (旧 p. 1446)
第二日課 コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節~58節 (新 p. 322)
福音書 ヨハネによる福音書16章25節~33節 (新 p. 201)
説教題
「生きていても死んでいる、死んでいても生きている」
Está vivo, mas morto. Está morto, mas vivo.
導入
仏式の超教派の慰霊祭、灯篭流し。盆踊り、花火と続き、帰ってきたのは深夜2時過ぎでした。ハードスケジュールでしたが、とても楽しく、味わい深い日でした。子どもの頃の、田舎に行った夏休みの一日だったように感じました。
懐かしい、お盆の行事。灯籠、盆踊り。仏教で言うところの、それぞれの意味や起源などは知らなくても、心に染み付いた文化を感じました。
聖書
さて、今日は私たちも、故人を偲んで教会に集まっています。11月のキリスト教の行事ですけれど、日本のお盆と同じように、ブラジルでは「夏」の一日です。
それに対して、聖書の教えることはどうでしょうか?死は怖いもの、「けがれている」もの、そして一度死んだものが、こういう日に、遠くからこの世にやってくるものとは、必ずしも捉えられてはいません。
今日の聖書を見てみましょう。
旧約聖書では、ヨナの話です。ヨナが三日三晩魚の中にいた、死の恐怖の体験と、そこから救いだされた様子を旧約聖書は描いています。彼は、絶望の死の淵で、神様に祈り、その祈りが届き、救いだされたのです。文字通りそのようにではなくても、私たちの人生でも、絶望と悩みの中では、生きていても死んでいるように辛いものです。しかし、そこで神様に祈り、道が開かれるなら、まさに「生きている生き方」が出来るでしょう。
福音書では、イエス様は言われます。あなたがたには、おそれがある。しかし、私はすでに世に勝っている。なにも、恐れることはない。イエス・キリストによって、真実の生き方を教えられ、今までの罪深い生き方に別れを告げ、新しい命を生きているものは、死を恐れる必要はないのです。生きているものも、先に死んだものも、ともに神様の元にいきている。
聖書の二つの言葉をいつも思い出します。
ヨハネの黙示録3:1に「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」という言葉があります。そんな死んだような、意味のない生き方をしているか、それとも、本当に愛にあふれた意味ある生き方をしているかどうかが、生死を分けることよりも、もっと大きな分かれ目なのです。
マタイ10:28には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とも聖書は告げています。このように、死を考える事は、すなわち今の生き方を考えさせられる出来事と言えるでしょう。
振り返り
忘れられないお葬式があります。50代の病弱だった独身の娘さんをなくした80代のお母さん。最後の献花をする時に、気丈なお母さんが、声を上げて泣きながら、「元気にしてなさいよ。私もそのうち行くからね」と棺にすがりました。参列者の涙を誘いました。
実は、「亡くなった方に、元気でいなさい」というのもおかしな話。「私も、あとから、そのうち行くから」というのも、どうコメントしていいかわからない言葉。
しかし、そこにこそ、死んでも「元気に生き続ける」姿を見ている目。自分もやがて、死ぬけれども、そこに恐れはないという確信。それらが、強く溢れていました。
人々は、おかしな言葉だと思うどころか、笑うどころか、大きく心動かされ、キリスト者の生きることと、死ぬことを、学ばされたのです。
勧め
そして、私たちは、愛する者の死を悲しむだけではなくて、彼らの生き方とそこから教えられたことを感謝し、今の自分の生き方にきちんと目を向ける日でもあるのです。そんな日にいたしましょう。
ともに祈り、ともに神様の祝福の中を生きていきましょう。
