聖 霊 降 臨 後 第 8 主 日(緑)
聖書朗読 Leitura Biblica
1.第一日課 哀歌3章22節~33節 (旧 p. 1289)
2.第二日課 コリントの信徒への手紙Ⅱ8章1節~15節 (新 p. 333)
3.福音書 マルコによる福音書5章21節~43節 (新 p. 70)
説教
「信仰、猿と猫 - Fé, Gatos e macacos-」
導入:
12年前のことを考えてみました。皆さんも、どんなことをしていたでしょうか?すこし思い出してみてください。
1997年は、世界初のクローン羊が生まれた年。南米ではペルー日本大使館公邸に特殊部隊が突入して人質が解放されたのもこの年の4月。8月にはダイアナ妃が亡くなり、9月にマザー・テレサが亡くなりました。 私個人は1995年に東京の大森教会に転任して、幼稚園と教会で初めて園長もさせていただいて苦労していたころです。1996年には幼稚園と教会のホームページを作ってみて、珍しがられた翌年になります。
こうしてたどっていくといろいろ思い出しますが、急には思い出せません。12年というと、もう、一昔を通り過ぎて、なかなか思いだせない、ずいぶん昔の話のように思います。
聖書に聞く:
どうして12年前かといいますと、今日の聖書の登場人物の二人の女性に、12年という歳月が出てくるからです。12年間病気で苦しみ、恥ずかしい思いもし、治療で全財産を使い果たしたけれど、なんのよいこともなかった女性。そして、今風前の灯の命がイエスを待つ前に消えてしまった少女は12歳だったのです。苦しみを抱え耐え続け、快復を願い続けた、耐え続ける12年間。一方の少女は、親が愛で育てながら育てた楽しい日々と、一緒に夢見た将来の可能性が詰まった、これからという12年間を数えていました。
その12年間がイエスとの出会いで大きく変わります。この出会いも聖書を読むと、二人はずいぶんと違います。せめてイエスの服にでも触ればいやされるかもと、一生懸命に求める姿が最初の女性にはあります。一方の少女は聖書を見る限り、本人は何の努力もしていません。親のヤイロや使いの者は信仰深く丁寧に、イエスに出会い求めますが、少女は、イエスと出会うときはもう息を引き取っていたのです。
この違いを見て、聖書を読む私たちは、どのような姿勢で生き、神様に出会っていけばよいか考えさせられてしまいます。
振り返り:
「信仰には猿型と猫型がある」と、よく教会で言われることがあります。北森嘉蔵という有名な日本の神学者の先生によると、ルーテル教会の信仰は「猫型の信仰」ということになります。一生懸命親に抱きついてぶら下がる猿型ではなくて、何の努力もほとんどないように「ひょい」と首を軽く咥えられて親猫にぶら下がる姿です。人間の努力や行い、献金や犠牲によってではなく、神様の一方的な恵みにより信仰により救われるというのが私たちの考え方です。
私も教会めぐりをした末に、このルーテル教会で救われた気がしました。しかしのちに、「やれやれ救われてよかった」とのんびり座っているように感じて、居心地の悪さも感じます。ルター自身も「私は信仰を強調し、そのような信仰抜きのわざを非難するものであるが、人々は私を、善き業を禁じるものだと言って責めとがめる。」と誤解されていることを嘆き、信仰に基づくよい行いの大切さを訴えています。
奨め:
私たちが聞き取るべきこととして、一生懸命信じ願う信仰と、もう一方では、苦難の中にあっても神様にゆだね任せる信仰、それらの大切さを教えられます。
しかしそれは、簡単にできることではありません。それが出来るのは、旧約聖書の哀歌にあるように、「主の慈しみと憐れみへの信頼」があればこそなのです。
「苦難の時も黙してそれを味わえ」とあります。時がよくても悪くても日々を味わい、希望を失わず、神様にゆだね、愛のある行動を行う、そんな生き方ができればと、思わされます。
祈り