聖書箇所
・第一の日課 ヨナ書 2:1-10 (J-AT p.1446)
・第二の日課 1コリント 15:50-58 (J-NT p.322)
・福音書 ヨハネ 16:25-33 (J-NT p.201)
説教題:「十字架のこちら側と向こう側」
エピソード1
今日は、召天者記念礼拝です。 たくさんの方においでいただき、ありがとうございます。
今日は、亡くなった方々のこと、そして、死をいうものを考えながら集まっています。
しかし、ここに集まったものの中で、「もう死んだことがある」という者はいません。
普通、私たちには死後の世界は分かりません。 自分が死んだら、どうなるのか、そして、どんな葬式になるか。 誰が、どんなことを言ってくれるのか、少々心配ですね。
しかし実は、私は、葬式の当事者になる、似た体験をしたことがあります。
昨年の5月。この教会が引っ越してすぐ、まだ改装工事もしていないころ。 日本のルーテル教会の総会があり、ブラジルを支援する朝食会に集まった皆さんと、インターネットでTV会議をしましたた。スカイプというソフトで。
話をしたり、こちらのメンバーを紹介したり。こちらは夜だったので、5人ほどでしたが。
そして、最後に、「ブラジルの徳弘先生に皆さん一言ずつ、挨拶をしてお別れしましょう」と司会者。
すると、みんな日本の教会のパソコンのカメラの前に、列を作ってくれました。
一人ずつ、順番に挨拶をしてくれる。
「先生、こちらでは、いろいろお世話になりました」
「また、お会いできる日まで」
「先生、あの時は、すみませんでした。」
「先生、一緒にいろんなことしたこと、おぼえていますよ。ありがとう」 と、順番にカメラとマイクに向かって、話しかけてくれます。
後ろには数十人の行列。
一言ずつこちらからも、挨拶します。顔を見ながら。
しかし、これは、特別の体験でした。
「自分が死んで、葬式になったら、きっと、こんな風にみんな行列を作って、献花をして、言葉をかけてくれるんだろうなぁ」
「お世話になりました」
「あの時はすみませんでした」
「あの楽しかったこと、覚えていますよ」
「また天国でお会いしましょう」と、みんな言ってくれるんだろうなぁ。
そう、思いました。
しかし、死んだあとなら、一つ違うことは、こちらの挨拶や返事が、向こうには届かないということです。生きたものから、死んだ者への一方通行なのです。
エピソード2
先週、出張に続いて、一週間休暇をいただきました。
ポルトアレグレから、アルゼンチンのブエノスアイレスに行きました。
ホテルは、「レコレタ墓地」という有名なお墓のすぐそば。有名なお金持ちの立派なお墓があるところです。そして、みんなが見に行くお目当ては、元大統領ペロンの、有名な夫人、国民的英雄、「エビータ」のお墓です。
元女優で、フアン・ペロン大統領の妻、マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(Maria Eva Duarte de Perón。エビータという映画もいくつかあったと思います。
私たち夫婦も、地図を買って、そのお墓まで行ってみました。
立派なお墓ばかり。 「うちの教会の門構えよりも、ポルトンよりも立派だなぁ」と思わせるものばかり。
そして、うちの教会のポルトンそっくりのお墓を見つけました。
週報の表紙に写真を載せました。
鉄の扉で、十字架の形にくりぬいた穴があり、そこからお墓の中をのぞいてみることができます。
私もそうしてみましたし、行きかう人も、何人も同じようにしてみていました。
まるで、生きたものが、十字架越しに墓の中をのぞき、 死んだ者が、十字架越しに墓の外を覗いている そんな風景でした。
私たちの、生き方も同じです。
生きたものが、死を見つめるのは怖いこと。
しかし、十字架越しに死後の世界を覗くとそれは違ってきます。
死んだ者が、生きた世界を見つめるのは、つらいこと。
声がかけられない、返事ができない。謝りたくても、もう遅い。一言お礼を言わねばならないけれど、かなわぬこと。
心に残るわだかまりや、傷が癒えぬまま、暗闇から生きた世界を見つめるようなもの。
しかし、十字架越しに生きた世界を覗くと、違ってくるのです。
聖書を読んでみましょう・・・
聖書
今日の聖書は、こう私たちに宣言しています。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
キリストの十字架越しに見るなら、死後の世界は怖くない。
そして、死後の世界からも無念はないのです。
聖書が言うには、「生きている、死んでいる、の違い」は、もはやありません。 キリストにあって死んだ者は、たとえ死んでも生きるのです。
遺影を見ながら、思い残したこと、言えずにいたこと、仲直りしたかったこと、聞いておきたかったこと…、色々なことを思うことがあります。
また、無念で、残念で、苦しくて、そんな気持ちで旅立った人たちもいるかもしれません。
しかし、今日の聖書は、私たちにはっきりと告げています。
何も心配しなくてよい。「私はすでに世に勝っている」 イエスキリストの十字架に、すべてをゆだねるときに、すべてを解決してくださるのです。
キリストにあるなら、赦され、和解させられ、解決され、解き放たれるのです。
天国に送った愛する人たちのことは、イエスキリストの十字架に、お任せしてよいのです。
そして、安心して、天国で憩っていただきましょう。
振り返り
さて、地上でまだ生活を続ける私たちは、どのように生きるように、神様は願っておられるのでしょうか。
昨日、今日の礼拝のために、聖壇の白い布を買いに近所の日系人の方がやっているお店に行きました。遺影を飾り、ろうそくを置くためのテーブルに白いテーブルクロスを敷きたかったからです。
いつもあるところを探しも見つからないので、店員のブラジル人の青年に、聞きました。
「あの、白い布みたいなの、ある?」
「しろいのって、何? ●×△のこと?」という返事です。
「ごめん、よくわからない、あれ無いの、今日は?」と売り場まで連れて行きます。
「これ、この白いの」
「ああ、あるよ、ある」
「ねえ、これポルトガル語でなんていうの?」
「これは、TNTっていうんだよ」
「TNT?、それどんな意味?」
「知らないよ、待ってて」といって、日系人の店主のところにってかえって来ました。
「TNT, Tecido não Tecido のことだってよ」
「Tecido não Tecido?なにそれ。布だけど、布じゃないって。面白いねぇ 人間だけど人間じゃないみたい。結局なんなの?」と、つまらない話を続けて楽しんでみました。
「布みたいに見えるけど、布じゃないってことだよ、きっと」という返事です。
日本語では、「不織布」といいます。「織ってない布」という意味ですね。こちらの方が合点がいきます。
さて、TNTの話です。
「布だけれど布ではない」。
私たちもそうです。
キリストにあって、信仰があれば、「死んでも死人ではない」と聖書は言うのです。
逆に、神様の愛、本当の生きる価値を知らなければ、「生きていても、生きた人ではない」とも、聖書は言います。
勧め
彼らは、キリストにあるなら、きっと死んでも死人ではないのです。
神様のもとで、安らかに安らいでいるのです。
私たちも、地上の生活をまだ許されていますが、「生きていても死人のよう」な生き方ではなく、神様の愛を知り、それを人に伝え、愛を持って奉仕しあい、愛と平和の世界を築いていきましょう。
本当に意味と価値のある生き方、「生きていて、本当に生きている」生き方です。
そうするときに、十字架越しに、安心して向こうを見ることができます。
そしてやがて、十字架越しに、安心した気持ちでこちらの世界を見ることができるでしょう。
私たちの、生も死も支配しておられる、イエスキリストのゆえに、私たちは赦され、祝福されています。
皆さんの生活の上に、神様の大きな祝福がありますように。